東京帝国大学のセツルメント・ハウスと日本の戦間期における社会的不平等の克服

プロジェクト概要

1923年9月に、東京帝国大学の左翼学生や自由主義陳の教授により、東京の労働者地区、本所にセツルメント・ハウスが創立さられた。学生たちが「セツラー」として、いわば無産階級の人々の間に住んでいたこの建物の中には、学生や教授が講師を務めた労働者のための夜間学校も経営され、その卒業生の中には、のちに労働組合のリーダーや、戦後社会党系の政治家となったものもいる。このようなセツルメント・ハウスの観念は、ヴィクトリア朝の英国で生まれたもので、19世紀の終わりから世界的に普及してきた。日本でも、1920年代に入って、このような施設が20か所以上存在した。その中でも、1923年の東京大震災後に建てられた本所のセツルメントは、国内最高の学府たる東京帝国大学と繋がっていたため、特別な存在であったと言わざるを得ない。そのこともあって、セツルメントはあからさまに左翼との関わりを持っていたにも関わらず、軍国主義やファッシズムの時代になってもなお、1938年に当局により強制的に閉館されるまで、長い間活動を続けることができた。

セツルメントに関わった帝国大学の学生の多数は法学部に所属していたが、一部、医学  部や社会学部などの学生もおり、またその多くは左翼の学生組織であった東大の新人会でも活躍していた。彼らは、セツルメントの活動のため、次のようにいくつかの部を設けた。

  • 調査部: 隣近所をよりよく知り、実証的な社会研究者としての能力を高めるため、学生たちは1929年まで定期的に本所でアンケートや調査を行った。
  • 労働者教育部: おそらく労働学校は学生たちにとって、セツルメントのもっとも重要な一部であった。帝国大学や外部の講師が授業をしたり、講演を行ったりした。
  • 市民教育部: 労働者向けに構成され、組合活動、経済、社会科学に重点をおいた労働学校の授業内容とは別に、セツルメントでは広く一般教養的なプログラムの授業や講演も提供された。
  • 児童部: 共働きの両親が、なるべく長い時間仕事ができるように、午後から夜分まで学童の面倒をみた。
  • 託児部: まだ学齢に達していない子供達のための保育所も設置された。
  • 法律相談部:  帝大法学部の教師が、借家や勤労権に関わる問題などのための相談室、無料の法律相談を提供した。
  • 医療部: 法律相談と同じく、帝大医学部の職員が本所地区の住人のために、セツルメントの建物の中で無料の診療所を経営した。
  • 消費組合部: 当時の日本では消費組合運動が流行っていたため、1927年にはセツルメントでもその建物の中に消費組合が置かれ、ほとんど地区の住人によって自主的に経営された。

これらの部の活動から明らかになるとおり、東京帝国大学のセツルメント・ハウスは、不平等と感じられた経済社会システムを変えるため、実際に行動しようと力を尽くした戦前日本の進歩的な勢力の最も有力な例の一つである。本プロジェクトの目的は、帝大のセツルメント・ハウスの活動家が展開した理論上の考察と、彼らの実際の活動を再構築すことにある。その目的を達成するため、プロジェクトの研究内容は三つに分けられている: ① 労働運動、② 社会政策、③ 社会科学と高等教育である。

① 戦前・戦後ともに日本の労働運動に、セツルメント・ハウスは深い影響を与えた。特に、今までの研究ではあまり焦点が当てられてこなかった、進歩的な思想家達の理論上の努力と、社会改革の活動家達が実践した活動との間の関係を研究することが目的である。その中心には、労働学校に関する理論上の教育学的な考察(1920年代の労働学校や、「自由大学」など他の形での成人教育との比較も含む)と、その実践の比較が置かれる。特に興味深いのは、労働学校に通った労働者の経歴を調べることである。

② セツルメント・ハウスは、法律相談部、医療部、児童部を設けていたため、社会福祉や社会事業の提供者であったといえる。今までの研究では、社会事業については、国家の圧倒的な権力に焦点が当たっていたが、本プロジェクトでは、非国家側の社会政策に貢献していた組織などの活動、またその相互関係も含め、相当に評価することがひとつの目標である。同じころに東京に存在した数多くの他のセツルメント・ハウスや、似た設備との比較をすることも意義があろう。特に着目するのは、1920年代に社会的に不可欠なものとして激しく議論され、学問としての教育学でも、初めて課題として取り上げられた託児施設である。

③ セツルメント・ハウスの創立は、日本の近代社会科学の興起の時代と重なり、それに大きな影響を受けている。逆に、セツルメント・ハウスでの実践的な活動は、今までの高等教育史にあまり触れてこなかったと思われるが、高等教育の教授法の新しいやりかたに影響を与えたり、教授と学生達の間に新しい関係をもたらした。法学教授の末弘厳太郎と穂積重遠、そして社会学者の戸田貞三は、大学によるセツルメントの指導において、重要な役割を果たした。同時に彼らは、大学での教育方法の改善を目指していた最も革新的であった教授に数えられる。

帝国大学のセツルメント・ハウスを20世紀前半の日本の労働運動、社会政策、社会科学、そして高等教育の幅広い歴史の中に位置づけることによって、それぞれ影響力のあった国際的なコンテクストに加え、これらの分野の相互関係を明確にしていくことを目指す。例えば、特定なプロレタリア文化を求めるソ連の声は、英国の表現で享受された形で日本の成人教育の理論に使われた。しかしセツルメントで具体的に実行された社会科学における実証研究への転換は、教授たちのアメリカでの経験に基づいていた。プロジェクトの主眼点の一つは、進歩的な社会運動の理論と実地の相互関係にある。結局、プロジェクトの研究結果は、近代日本における平等と不平等の歴史に関する大幅な著作計画に貢献することを望んでいる。

以上の研究をハイデルベルグ大学にて、プロジェクト「東京帝国大学のセツルメント・ハウスと日本の戦間期における社会的不平等の克服」の範囲で実行するため、ドイツ研究振興協会(Deutsche Forschungsgemeinschaft, DFG)から三年分の費用を提供されている。プロジェクトの期間中(2021年4月1日から2024年3月31日)、ハイデルベルグ大学日本学部の学者チームは、研究助手の協力を得ながら、計画的にセツルメント・ハウスの活動、また戦間期におけるセツルメントの社会的平等への貢献を研究するものである。

チーム紹介

Deleu, Hanne ハッネ・デレウ(2021年4月〜2021年12月)
  • 担当分野:社会政策
  • 2020年ハイデルベルク大学修士課程修了(異文化間研究副専攻)
Grover, Bruce Gordon ブルース・ゴルドン・グローバー
  • 担当分野:知的歴史
  • ハイデルベルク大学博士課程(日本学)
  • 2014年ロンドン大学東洋アフリカ研究学院修士課程修了
Janzen, Violetta ビオレッタ・ヤンツェン(2021年4月〜2023年9月)
  • 担当分野:外国、特にソビエト連邦との思想の伝達と接触
  • ハイデルベルク大学修士課程学生(日本学専攻、異文化間研究副専攻)
  • 担当分野:教育史と科学技術移転
  • ハイデルベルク大学日本学研究所教授(歴史学・社会学専攻)
Lau, Sai Kiet Niki サイ・キエト・二キ・ラウ (2021年4月〜2021年12月)
  • 担当分野:マイノリティー、労働学校
  • 国際基督教大学修士課程修了(社会文化分析)
Witt, Alice アリセ・ウィット
  • 担当分野:生徒と先生の経歴
  • ハイデルベルク大学修士課程学生
  • 2019年ハイデルベルク大学学士取得(東洋学・日本学専攻)

研究活動

  • 2018年11月22日-23日、ハイデルベルク大学日本学科とハイデルベルク大学トランスカルチュラル・スタディーズセンターのワークショップ: “Global Efforts to Overcome Economic Inequity in Japan, the Soviet Union, and the Anglosphere in the Interwar Period“「戦間期の日本、ソ連、英語圏における経済的不平等を克服するためのグローバルな取り組み」、於ハイデルベルク
    • サラ・バドコック(ノッティンガム大学)„Popular Enlightment Campaigns in 1917: Political Elites and ‚Ordinary‘ People“「1917年の民衆啓蒙運動。政治的エリートと「普通の」人々」
    • クリストファー・リード(ウォーリック大学)„Proletkul't and Prosveshchenie (Enlightment): Developing a Strategy for Socialist Education”「プロレトクルトとプロスヴェシチェニ(啓蒙)。社会主義教育戦略の開発」
    • ファビアン・トンプセット(東ロンドン大学)„Whose Civilisation? Whose Education: The Contribution of Cedar and Eden Paul as Seen Through the Workers‘ Dreadnought“「誰の文明か?誰の教育か。ワーカーズ・ドレッドノートを通して見たシダーとエデン・ポールの貢献」
    • ブルース・グローバー(ハイデルベルク大学)„The Tokyo Imperial University Labor School in Context: The Free University Movement, Proletkult, and New Culture in 1920s and 1930s Japan”「その文脈の中の東京帝国大学労働学校:1920〜30年代日本における自由大学運動、プロレトクルト、新文化をめぐる」
    • アーロン・レティッシュ(ウェイン州立大学)„Cultural Education in Soviet Courts and Law”「ソ連の裁判所と司法における文化教育」
    • コリン・ジョーンズ(コロンビア大学)„Does the Law Live? The Yanagishima Settlement and the Question of Legal Consciousness“「法は生きているか?柳島のセツルメントと「法意識」の問題」
    • トム・ウッディン(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)„The Co-operative Movement and Education in Britain during the Interwar Period”「戦間期のイギリスにおける協同組合運動と教育」
    • クリス・パーキンス(エジンバラ大学)„Models of Participatory Worker Education in Prewar Japan: The Cooperative of the Tokyo Imperial University Settlement House”「戦前期日本における参加型労働者教育のモデル。東京帝国大学セツルメントハウスにおける消費組合」
    • ローラ・ハイン(ノースウェスタン大学)„Concluding Discussion”「総括討議」
  • 2022年5月24日, 専門談話、Robert Kramm ロバート・クラム博士、 ミュンヘン大学(グローバル・ヒストリー)
  • 2022年6月、ワシントンDCへのアーカイブ旅(米国議会図書館、日本の公文書及心檢閱資料)、ブルース・ゴルドン・グローバー
  • 2022年7月27日、専門談話、福家崇洋、京都大学人文科学研究所
  • 2022年11月-2023年2月、アーカイブ旅、国立国会図書館、ブルース・ゴルドン・グローバー
  • 2023年2月28日、専門談話、伊藤貴雄(創価大学)と川口 雄一(川口 雄一)
  • 2023年8月18日、進捗報告、ヨーロッパ日本研究協会(ヘント、ベルギー)、ブルース・ゴルドン・グローバーとハンス・マーティン・クレーマ
  • 2024年6月(計画)、研究発表「戦間期日本における大衆文化と前衛:第一次世界大戦からファシズム時代までの左翼の改造思想と実践」

刊行著書

  • Knaudt, Till; Krämer, Hans Martin (2017): „Politische Agitation und Sozialreform im Alltag: Das ‚Settlement‘ der Universität Tōkyō in Shitamachi“「日常生活における政治的アジテーションと社会改革:下町の東京大学のセツルメント・ハウスをめぐる」. In: Köhn, Stephan; Weber, Chantal; Elis, Volker (Hrsg.): Tōkyō in den zwanziger Jahren. Experimentierfeld einer anderen Moderne? Wiesbaden: Harrassowitz出版社, 241–259.

 

 

Zuletzt bearbeitet von:: bbsd
Letzte Änderung: 04.03.2024
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